創業当時(明治二十三年頃)、坑夫社宅は下ノ沢、サクシに三、四棟しかなく、川向には仮事務所と役員社宅が、川端に「かねみ」という荒物雑貨店が一軒あるぐらいのものでした。
坑夫社宅は、今から考えるとまったくひどく、土人の住家としか思われぬ程度の建物で、天井板はなく、もちろんストーブなどもありません。ただ土間に三尺四方の炉が切ってあるばかりで、これで石炭を焚いて暖を取るありさまで、黒煙が屋根いっぱいに広がり、時々細長い煤が頭に落ちて来て、驚いたものです。
もちろん畳なども真黒で、夕方になると、人の顔も誰だか見分けがつかないこともありました。山はうっそうたる原始林で、たまたまウマのいななきがこだまするばかり。夜分にはキツネ、タヌキの声が物淋しく、クマの出現も珍しくなかったものです。
当時の物価は、米一俵越中米の上等で三円五○銭、味噌一貫匁一六銭、砂糖一○○匁六銭、小豆一升三銭、酒一升一八銭でした。夏には時々アイヌが赤平から山越えしてやってきて、マスを売って歩いていました。一本三銭ぐらいで、当時の値段としては安くはありませんでした。当時この辺にもヤマベが多くいました。
サケやマスも神威まで行くと、よくとれたようです。しかし、クマなどがずいぶん出没するものですから、夕方ともなれば誰一人として神威まで行く者はいなかったようです。