その頃(明治二十三年当時)、今眼に見える畑の山々には、原始林の大木が天を摩しており、昼でさえなお暗かった。それでたくさんの杣夫も入ってきた。一抱も二抱もある大木が、一本一本気味悪い傾きとともに、メリメリと百雷の音をたて、砂塵を巻き起こしながら倒されていった。
しかし、飲料水が悪いためか、脚気で倒れるものが続出した。毎日のように、此処彼処で脚気患者が二人、三人と死んでいった。鹿島山の墓地には新しい墓標が増していった。そのために没落した親方もいたという。赤痢の流行にも悩まされ続けた。馬虻の発生も激しかった。やぶ蚊の群などは、昼でも襲撃してくるので、ついに蚊帳を張って食事をすることもあったという。
古老の追懐では、開村当時はわずか二羽のカラスしか見られなかったといわれているこの村に、人の数が増すたびに"烏合の衆"も激増していったという。現在、ゆうがたに黒い木の葉を散らしたように見え、ギャアギャア鳴いている幾千万のカラスでさえ、人なき時代はにはわずか二羽でしかなかったということに、何と微笑を禁じ得ないではないか。
下ノ沢の昔の面影は、今の長屋のたたずまいから少し連想することができる。我が村開拓の勇士が集ったパンケ下ノ沢よ!願わくば、歌志内発展の地とならんことを。