答えはA:蝦夷地
蝦夷(えぞ)とは、『日本書記』(720年完成)にも登場する言葉で、大和朝廷からみて辺境に住む人々のことをさしていたことから、開拓期までその呼称が使われていました。
北海道には、約3万数千年前に、大陸からシベリア・サハリンを経由して移動してきた人びとが住み始め、そこから旧石器文化が築かれ、1万数千年前頃からは縄文文化が始まったとされています。
2千年前頃になると、そこから発展した続縄文文化となり、後期には、北海道特有の擦文文化に発展しましたが、それとは別にオホーツク文化がサハリンからオホーツク海沿岸、千島列島に広がりました。
B:奥の細道(おくのほそ道)は、松尾芭蕉の紀行文と俳諧。元禄15年(1702年)刊
C:東海道は.江戸時代の五街道の一つ。日本橋から京都まで五十三宿(東海道五十三次)がありました。
参考:北海道歴史・文化ポータルサイト AKARENGA/縄文文化
http://www.akarenga-h.jp/hokkaido/jomon/j-01/
答えはA:松浦武四郎
松浦武四郎は、北海道を6回訪れ、5回目の1857(安政4)年に空知川をさかのぼり、滝川市の地名の元になった空知大滝(芦別)を発見しています。
B:伊能忠敬は、55歳(1800(寛政12)年)の時に、第1次測量として東北・北海道南部を測量し、71歳まで10回にわたり日本全国の測量を行い、実測による日本地図を完成させましたが、空知川を訪れていません。
C:榎本武揚は、旧幕府軍と共に函館の五稜郭にたてこもり、リーダーとして明治政府に抵抗しましたが劣勢となり降伏、捕らえられました。しかし、国際法や軍事知識を買われ、恩赦により出獄後、開拓使に迎えられ、資源調査のため1873(明治6)年に空知川を訪れ、赤平付近で石炭の路頭を発見しています。そののち、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など明治政府の要職につきました。
参考:
北海道空知総合振興局ホームページ/日本遺産構成文化財の紹介/空知川露頭炭層
http://www.sorachi.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/rotoutan.pdf
松坂市ホームページ/松浦武四郎記念館
https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/takesiro/tyousa4th-5th-6th.html
国土交通省北海道開発局 札幌開発建設部/石狩川治水に係わる主な事業 68 空知大滝
https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/kluhh4000000174h.html
香取市役所ホームページ/伊能忠敬記念館
https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/tadataka.html
公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団ホームページ/榎本武揚
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/01_a/01-enomoto.html
答えはA:ライマン
ライマンは、開拓使に招かれ、北海道の鉱物資源調査と、日本人の弟子の育成にあたりました。歌志内や夕張の炭田を発見した坂市太郎(ばんいちたろう)もその一人です。
Bのクロフォードは、鉄道技術顧問として開拓使に招かれ、小樽-札幌-幌内間の鉄道敷設を指揮しましたが、空知川までは来ていません。
Cのクラークは、札幌農学校(現在の北海道大学)の教頭としてアメリカ型の農業を教えました。帰国の際、「少年よ大志を抱け」の有名な言葉を残しました。
参考:
小樽市ホームページ/北海道鉄道発祥の地・手宮の歴史
https://www.city.otaru.lg.jp/simin/sisetu/museum/iron_horse/history.html
北海道空知総合振興局ホームページ/そらち炭鉱(やま)の記憶をめぐる_そらちミニ炭鉱史
http://www.sorachi.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/yama/coalmine.htm
北海道歴史・文化ポータルサイト AKARENGA/大地を拓く-開拓の始まり
https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/kaitaku/k-02/
答えはC:オタウシナイ
オタウシナイ(砂の多い川)と名付けた人々が、空知川の上流に住んでいたといわれています。
A:カナシベツ(悲別)は、倉本聰脚本による、1984(昭和59)年放送のテレビドラマ「昨日、悲別で」より。歌志内と上砂川をロケし、架空のまち「悲別」に見立てました。
B:ホロシナイ(幌志内)は、作家 三浦綾子の小説「銃口(1994(平成6年刊)」の中で主人公が赴任する架空の炭鉱町ですが、作家本人が歌志内に教師として赴任した経験を反映させています。
参考:
『ク スクップ オルシペ 私の一代の記』(砂沢クラ 著) 1983 北海道新聞社刊
答えはA:カムイ(野獣の神)がいる山
熊などの野獣が生息する山をアイヌ語で「カムイヌプリ」などと呼び北海道各地に「神居」や、「神威」などの地名が残っていますが、それらは「カムイ」と呼ばれ、「カモイ」と呼ぶのは歌志内に限られています。入植者の方言やなまり、あるいはアイヌ語のなまりという説もありますが、わかっていません。
1964(昭和39)年発行の「歌志内市史」には、アイヌ文化研究家の更科源蔵教授に地名解説を依頼し、神威岳の古名であるカムイシンレルマップ=全体の意味がはっきりしない。カムイヌプリ=神の山=熊やオオカミなど野獣の多い山をさすとの記述がなされています。
答えはB:467メートル
古い記録には、477.7メートルという記述もありましたが、現在では国土地理院のGPS計測により、467.0メートルとなりました。
Aの634メートルは、東京スカイツリー(2012(平成24)開業)の高さ。
Cの333メートルは、東京タワー(1958(昭和33)年開業)の高さです。
答えはA:代継ぎの桂
かもい岳スキー場西コースの開発の際、発見されました。
B:愛染かつらは、1938(昭和13)年から1976(昭和51)年まで断続的に制作された、ヒット映画・TVドラマのタイトル。
答えはC:エゾエンゴサク
山頂の雪解けが終わった5月初旬に見られます。
答えはB:歌志内の上流を流れる川の意。
石狩川から見て、川上はペンケウタシュナイ川、川下は上砂川町をとおるパンケウタシユナイ川とされています。
参考:歌志内市史(1964(昭和39)年刊)
答えはC:北炭空知採炭所
答えはB:1890(明治23)年
答えはB:1891(明治24)年
答えはB:鉄道が開通した時(駅名)
答えはC:6駅
1889(明治22)年に官営幌内炭鉱・鉄道の払い下げを受け、誕生した北炭(北海道炭砿鉄道会社)が、翌年、歌志内と夕張に炭鉱を開き、歌志内-砂川間から鉄道敷設工事を始めました。
その路線は、室蘭-岩見沢間本線と追分-夕張間支線を室蘭線とし、岩見沢-空知太本線と砂川-歌志内間支線(1891(明治24年開通)を空知線とし、全てがつながったのは、1892(明治25)年でした。
開業当時、鉄道の駅名を、当時のアイヌ語地名オタウシナイから、発音を元に「歌志内」、意味を元に「砂川」と名づけました。
他の駅名についても同様ですが、岩見沢だけは、幌内炭山に至る道路開削工事の従事者のため、川辺の休泊所で浴(ゆあみ)した「浴澤」(ゆあみさわ)が転化し、「岩見澤」(いわみざわ)の和名がついたとされています。
小樽・室蘭から石炭は船積みされ、本州に向け送り出されましたが、小樽には400メートル近い木製の専用高架桟橋が設けられ、そこから直接石炭を船に積み込むことができました。
関係の年号は、1880(明治13)年、官営幌内鉄道 小樽-札幌間開通。
1906(明治39)年、鉄道国有化により北海道炭礦汽船株式会社に社名変更。
参考:
七十年史 北海道炭礦汽船株式会社 1958(昭和33)年刊
岩見沢市ホームページ/地名の由来
https://www.city.iwamizawa.hokkaido.jp/content/detail/1500004/
答えはA:1897(明治30)年
当時の奈江村から分村し、庁舎には富良野村の役場も置かれ、戸長(知事から任命された責任者)は一人でした。
Bの1940(昭和15)年は、町になった年、Cの1958(昭和33)年は、市になった年です。
参考:歌志内市史(1964(昭和39)年刊)
答えはA:人の名前から
中村弥六は、ドイツに留学し、林学を修め、帰国後、東京山林学校(後の東京大学林学科)教授、農商務省山林局技師などを務めました。1890(明治23)年の第1回衆議院議員に長野6区から出馬し当選(当選は8回)、1898(明治31年)には、第1次大隈内閣の司法次官を務め、翌年、林学博士となりました。
参考:国立国会図書館ホームページ/近代日本の肖像/中村弥六
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/447.html
答えはC:歌志内と神威地区の間にあるから
明治36年、この地区に炭鉱が開坑し、歌志内と神威の中間だったことから、両方の文字をとってつけられました。
参考:歌志内市史(1964(昭和39)年刊)
※なお、Aの歌の神様は祭られていないが、1973(昭和48)年の「幸福駅切符ブーム」の頃、カラオケブームと重なり、歌神駅の入場券が「歌の神」にあやかり、縁起がいいことから、たくさん売れたという話が残っています。(函館本線の美唄駅も同様)
答えはB:16
1958(昭和33)年に北炭(2砿)住友(2砿)ほか、その下請けの中小炭鉱あわせて16炭鉱あったことが記録されています。
参考:北海道炭鉱資料総覧 2009(平成21)年 空知地方史研究協議会刊
答えはB:1900(明治33)年
1900(明治33)年、空知砿に60キロワットの発電機が設置され、蒸気動力の扇風機を電動に切り替え、坑外に電車を走らせたとの記録が残っています。
参考:七十年史 北海道炭礦汽船株式会社 1958(昭和33)年刊
答えはB:石炭を選別する工場
空知砿の選炭工場には、100㌧の水選機が3機設置され、採掘された廃石(ズリ)の混じった石炭を巨大な水槽(バウム式水選機)に投入し、比重の差を使い、より分けていました。そこから、石炭は決まった大きさに選別されてから、石炭貨物車に積み込まれ、ズリは輸車路でそばにズリ山に運び上げられ、だんだん高い山になっていきます。
Cの石炭を石油に加工する工場は、日中戦争の時代、乏しい石油資源を補うため、1938(昭和13)年、滝川に北海道人造石油株式会社が作られましたが、1万キロリットルを作っただけで終戦となり、工場は閉鎖されました。
参考:七十年史 北海道炭礦汽船株式会社 1958(昭和33)年刊
答えはC:炭鉱の立坑
立坑の直径は6メートル、深さは、285メートル。
1957(昭和32)年から着手し、1960(昭和35)年に竣工。総工費は当時の金額で16億円かかりました。
当時石炭業界は単価に引き下げを産業界から迫られており、北炭(当時)は、運搬能力を高めることで生産性を上げコストダウンを図る目的で、建設されました。
Bの焼却施設は、空知炭砿の斜め向かいに、中・北空知廃棄物処理広域連合が可燃ゴミの焼却施設として2013(平成25年)より「中・北空知エネクリーン」を稼働させています。
参考:歌志内市史(1964(昭和39)年刊)
答えはB:D51型
D51型機関車は、貨物列車専用として設計され、1935(昭和10)年、北海道に2両が配置されてから、1967(昭和42)年には、240両が使われるようになりました。
歌志内線では、砂川から歌志内に傾斜しているため、冬になると石炭貨物車を大量にけん引するため、二重連(二両連結)で運行する姿が見られました。
1975(昭和50)年には、ディーゼル機関車(DD51型など)の導入が進んだことから、全国の路線で運用が廃止されました。
参考:北海道鉄道百年史(日本国有鉄道北海道総局 中巻1980(昭和55)年・下巻1981(昭和56)年刊)
答えはA:ズリ山
歌志内で見られるズリ山は、中村地区にある住友歌志内砿のズリ山と、東光地区にある空知炭砿のズリ山があります。
Bの石山、Cの焼山は、どちらも砂川市の地名です。
答えはC:コールピック
コール(石炭)+ピック(つつく道具)の意味を持つ手持ち採炭器ですが、現在でも工事用にその名のまま販売されています。
炭鉱経験者の話では、採炭員の中には力持ちがいて、10キロ近い重量のあるコールピック2本を両手で持って作業していたという逸話が残っているそうです。
答えはB:ハモニカ長屋
炭鉱会社が従業員のため建設した集合住宅です。
初期の作りでは、隣との薄い仕切り板はあったもの、天井板は貼られおらず、隣家のプライバシーが筒抜けでしたが、「一山一家」という言葉が残っているように、互いが家族のような気持ちで暮らしており、お互い様と思って、トラブルにはならなかったという話が伝えられています。